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2007年4月 2日 (月)

価値観と強制。

お久しゅうございます。
さてさて、久しぶりにまじめに書いてみようと思いますねん。


人間誰しも持っている”価値観”。
これは人それぞれ異なるものであるし、そんなこたぁ、言われんでも分かるわな。
しかし、不思議なもんで、
多数の人間は”自分の価値観”を”他人に押し付ける”事が、ままある。

「お前のその考え方は間違っている!」
と言わんかの如く持論を披露し、聞いているこっちは疲労する。
人生も半ば近くになり、さまざまな経験を積んできたオッサン(オバサンでもいい)が
若く、熱い情熱の塊・・・ついつい突っ走り気味の若者を諭すのには非常に有効やろう。
仕事にまつわる価値観であれば、同じ仕事場に居る後輩に教えを説くのは必要やとは思う

ただ、たとえば
宗教的概念、もしくは精神論じみたものを、我が思うことが絶対的価値やと言わんかのごとく
語られても、聞くほうが困るわけよ。
しかもこれが家庭内、しいては教育うんぬん・・・
になってくると、非常に心地の悪い状況に直面するんやな

それぞれに置かれた状況も異なれば、接する人間の性格、周囲の環境すべてが違う中で
「お前らは若い(経験が浅い)んやから、オレの話を聞けぇ!」的な物言いをされても困る。

特に宗教的価値観については、
かめきち。自身があまりその手に興味がない。
確かに先祖を大事にするのは大切で、それを敬う気持ちを忘れてはならんと思う。
先祖があればこその自分、と言う意味も含めてな。
ただ、かといって家に帰って祈りをささげるでもなく、あの世を信じているわけでもない。
俺の価値観からすれば、既にこの世に存在していないものに対して、祈りをささげたところで
何が変わるわけでもない
さらに、信心深くなったところで、信じれるのは「自分だけ」やからと思うからよ。
これは別に独善的な意味ではなく、現実を考えればその通りやと思う
苦しいからといって神様やら先祖さまやらが助けてくれるわけでもなく、
道を開き、結果として残るのは”自分の行動”に係っているに過ぎないからやな。
神様やら、仏様やらを信じるのは人間の弱いところの表れでもあるわな。
弱いから、他に助けを求める・すがる。
すがることで、自分の持つプレッシャーから少なくとも逃れられる気分になるからや。
ただ、こんだけ好き勝手書いても、「何かを信じる」人を非難するつもりもなけりゃ、
それはそれで必要な方法なんやろうと思うから、「間違ってるで」とも思わん。
だから、人それぞれの価値観を尊重するのが必要、と言いたいわけよ。
 
俺みたいな考えの人間もおりゃ、信心深い人たちもおる。
それが当たり前なんやで。
 
相手を認めて、それでもなお可笑しい考えがあれば話し”合え”ばいい。
一方的な押し付けほど罪深いことはないと思うな。
 
さらに、家庭内の教育にまで口出しされだした日にゃ、もー好きに言うとってーってなる。
他人の家庭に口出ししているのと同義なんよ。言い方にもよるけど。
では問うが、その発言をすることで、影響が悪く出たときにどうするつもりか、と思う
「言葉を鵜呑みにしたお前が悪い」と言う言い分ももっともだが、それ以前に口に出し
こんこんと持論を説いた責任は発生しているはずや。
まぁ、俺はこんな言葉は鵜呑みにしないタイプなので、影響はゼロだが、今後どこで
どうなるかはワカラン。
 
 
 
 
俺の書くブログ内容も一部の人間には受け入れられても
受け入れられない人間もいる。これが現実やで。
さらに、大方には逆の価値観があっても内容の一部には相通ずることもあるやろう。
 
 
せやから、価値観は押し付けたらアカン。
ってこと。

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